「ダイアローグ・ギルティ」 そのC


第二章

 〈神谷瑞樹と高松信夫(たかまつ のぶお)〉
 昨日のゲームから丸一日経った。その間、私は外の世界に出て、貰った賞金の内二万円くらいを持って、食事をしたりした。外の世界ではやりたい事は無かった。仕事も辞めてしまったし、家にも帰りたくない。両親に電話でもしようかと思ったが、別に話す事も無かったのでやめた。話した所で信じてもらえないだろう。
 結局大した事もせず、ここに戻ってきた。もう外の世界に私の居場所は無くなってしまったのかもしれない。ここの方が、外にいるより落ち着く。元々、私は五月蝿い所が嫌いだ。ここ程、静かな場所などそうない。
 ここに来る度に思う。月は出ているのだろうか、と。無い物ねだりだと自分でも感じる。持っている時は見向きもしないのに、無くすと途端に欲しくてたまらなくなる。そして、また手に入れれば、また関心を無くしてしまう。つくづく馬鹿だと思う。だけど、あの人だけは失う前から手放したくないと思っていた。
 なのに、失ってしまったのは何故だろう? 
 鉄格子の向こうは暗い。月は出ていない。
 今度の相手は男だった。四十は過ぎているだろう。疲れたような顔をして、髪の毛はしおらしく眉毛を隠している。腹の部分に贅肉がついているがスーツを着ているせいか、そんなには目立たない。スーツは外の世界でよく見る鼠色の何の変哲も無いやつだ。
「‥‥随分と若いんだな。しかも、女とは」
 嗄れた声で男は言った。その姿に似合った声だった。
「女だと思ってなかった?」
「ああっ、私と同じような人間が相手だと思っていた」
「まっ、こっちにも色々と事情があるのよ」
「そうだな‥‥。君には君の事情というのがあるんだろう」
 男は大きなため息と一緒に、言葉を吐いた。言葉はまるで、私の耳に届く前に床に落ちて消えてしまうかと思うほど、重たかった。
 男は名前を告げた。高松信夫という名だった。信夫はYシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。私も煙草に火をつける。
「子供とか奥さん、いるの?」
 私がそう訊ねると、信夫は太股に肘を乗せ猫背になる。
「ああっ、妻と娘がいる。娘はもうそろそろ小学校を卒業する」
「勝手な推測して悪いんだけど、あなた、会社をリストラされたの? 奥さんも娘さんもいるのにこのゲームに参加する理由なんて、それぐらいしか思い浮かばないんだけど」
 信夫は少し淀んだ瞳を私に向け、どこか怒ったような、でも心底朽ち果てた口調で笑う。その笑いはあまりにも自虐的だった。
「そうだ。十五年間も勤め続けた会社だったんだがね、この不況で規模を縮小すると言うんだ。そして、縮小した結果、私がはじき出されてしまった、というわけだよ」
 信夫の顔には、今までの苦労が皺になって現われているかのように、深い皺が何本も走っている。
「そしてお金が無くなって、ここに来た。そういう事?」
「その通りだ。単純でよくある話だと思うだろ? でもね、単純でよくある話だろうと、その当事者達は皆真剣なんだ」
 信夫は苦悩すらも吐かんばかりに、再び深いため息をついた。彼がため息をつく度に、室内の空気が重くなるように思えた。
「‥‥」
 私は信夫に好感が持てた。疲れ果てながらも、この残酷なゲームに参加するだけの勇気が、この男にはある。参加せざるをえなかっただけかもしれない。でも、このゲームは命が賭けられる。行動によっては、このゲームを回避する事も出来なくはない。もっと疲れ果てなければならないが、でも、頑張れば参加しなくても生きていける。
 引き伸ばされる苦労を長い間味わうよりは、一時の地獄の苦しみを選んだのだ。
 もう一度、私もそんな他人の為の勇気が欲しいな、とふと思った。
「私はあなたの気持ちはよく分からないけれど、でも、凄いとは思うわ。自分の命を賭けたゲームに参加するなんて、なかなか出来る事じゃないわよ」
 私は組んでいた足を反対にする。格好はいつものTシャツとパンツ一枚だ。信夫は慌てて目を背ける。私は笑いながら、見ても減るもんじゃないのよ、と笑った。
 それで少し緊張が解けたのか、信夫は項垂れながらも微笑した。
「君だって、このゲームに参加しているじゃないか。大して変わらないよ」
「全然違うわよ。‥‥全然ね」
 信夫は意味不明、とでも言いだけな顔をするが、その理由までは聞こうとしなかった。
私も言おうとはしなかった。
 生きたいあなたと死にたい私。同じであるはずがない。
 この人から見れば、私は完全に異常者だろう。このゲームの最大の目的は金だ。多くの参加者はそれが目的でこのゲームに出ている。きっと私だけが違う理由でこのゲームに参加している。
「あなたは‥‥生きて帰りたいんでしょ?」
「当たり前じゃないか」
「そうよね‥‥」
 この人は生きて帰りたいと願っている。そして私はここで死にたいと願っている。利害が一致している。彼ならば、私は殺されても構わないと思えた。彼が死んだら、きっと娘さんは悲しがるだろう。奥さんは涙を流すだろう。私に涙を流してくれる人はもういない。
「‥‥」
 扉が叩かれる。突然の事に、信夫は背筋を突っ張らせ、ロボットのような動きで扉の方を見る。手にしていた煙草がポトリと床に落ちた。私は立ち上がり、落ちた煙草を信夫の口に添えると食事の時間よ、と言って肩を撫でた。
「今日の食事は何かしら?」
 扉を開けて入ってきた高瀬に、私は尋ねる。高瀬は手に持っていたトレイを私に渡す。
分厚い肉にフランスパン、そしてスパゲッティとシャンパンがトレイの上にのっかっている。
「イタリアのマフィアが食べる料理みたいね。私、外の世界でもこんなに大きなお肉、見た事無かったわ。高かったでしょう?」
「私は運ぶだけだから、そういう事までは分からない。でも、そこらへんのレストランで食べられるようなものではない事だけは確かだ」
「あなたも食べたい? ちょこっとくらいは残してあげてもいいわよ」
「‥‥結構だ」
「そう。美味しそうなのに」
「普通の食事でいい」
「私と?」
 冗談のつもりで言った。だが、高瀬の顔は真剣に私を見返す。
「そうだな。それもいいな」
「‥‥」
 予想外の言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。
 その後、高瀬はすぐに部屋から出ていってしまった。高瀬の最後の言葉が、やけに耳に残っていた。
 鍵がかけられる音が室内に響くと、信夫は萎れた花のようにへなへなと背を曲げた。
 肉もフランスパンも二つ用意されている。私はトレイを持ったまま、信夫の隣に腰掛けた。信夫はしばらく料理を見つめていたが、用意されたフォークに手を伸ばそうとしない。
「食べましょ。凄く美味しいわよ」
「とても食べる気になれない」
「ここで死ぬとは限らないのよ」
「でも君か私のどちらかは確実に死ぬ。そんな時に、悠長に食事なんて‥‥」
 私はトレイを置き、シャンパンを口にした。泡が喉の奥で弾ける感じがして、心地よかった。
「だったら、外の世界では絶対に死なないの? レストランで食事をしていて、突然トラックが突っ込んできたり、狂った男に突然刺されたりするかもしれないわよ。どこでも大して変わらないわ」
 ナイフを軽く押すだけで、肉は切れる。私はそれを手掴みで口の中にほおりこみ、パンを千切って一緒に口の中で噛み切る。肉汁とパンがうまく重なり合って、とても美味しい。
「うん、とっても美味! きっとこのお肉、外の世界だったら三千円はするでしょうね」
 私は僅かにこちらを見つめる信夫を横目に、スパゲッティをほおばる。頬が膨らむほど口の中に食べ物を詰め込み、時間をかけてゆっくりと飲み込んでいく。私はこういう食べ方が好きだ。
 私の食べっぷりを見ていた信夫の瞳は、何か微笑ましい光景を見るような穏やかな瞳をしていた。
「‥‥外の世界では、君みたく豪快に食事をする若い女性は見た事が無かったな」
「ちょっと格好良いでしょ?」
 私が微笑むと、信夫は震える手でシャンパンを取り、一口だけ飲んだ。
「ああっ。そうだな」
 それから、ゆっくりとだが信夫も食事を取り始めた。きっと味など分からないだろう。でも、それでいい。食事をとろうとする気持ちがあるだけでいいのだ。
「‥‥」
 あの人はあまりたくさん食べなかった。いつも、私が食べる様子を楽しそうに見つめているだけだった。私が不思議そうに見返すと、彼はいつも、君が羨ましい、と言った。私は冗談めかしに、太ってもいいの? と言うと、あの人は、君に変わりはないから、と笑った。
「ねえ、奥さんや娘さんの写真って持ってる?」
 食事が半分ほど終わった時に訊ねてみた。
「ああっ。見たいかい?」
「ええっ、是非」
 フランスパンを噛りながら、信夫はスーツの胸ポケットから一枚の写真を取り出し、渡してくれた。写真には四十くらいの髪の毛の長い細身の女性と、十歳くらいのポニーテールの少女が映っている。少女が女性の頬に口付けをし、女性が困ったような顔をしている。何気なく、そして微笑ましい光景だった。
「可愛い娘さんじゃない。奥さんだって美人よ。私も四十過ぎたらこんな顔になりたいわ」
「きっとなれるよ。君も美人だから。でも、妻の若い時よりは劣るかな?」
「なんですって?」
 私がわざとらしく頬を膨らまし、眉毛を釣り上げると、信夫は私の頭を撫で、すまないすまない、と笑って答えた。笑った顔を初めて見た。
 笑顔のまま、信夫は私の顔を覗き見る。
「君は‥‥あの男の恋人か何かなのかい?」
「えっ?」
「さっき料理を運んできた人だよ」
「ああっ、高瀬の事ね。そんなんじゃないわ」
「仲がいいみたいに見えたよ」
「あなたより付き合いが長いだけよ」
 周りからはそんな風に見えるのだろうか。一度は互いの身を重ねた関係だ。そう見られても不思議ではない。もっとも、信夫の言葉が真実で、彼を愛する事に生き甲斐を見いだせていたら、こんな所には来ていないが。
 彼もあの人と同じだ。何も言ってくれない。だから今私はここにいる。
「もしも彼が私にとって大事な人なら、私はここにいないわ。私はね、死にたいのよ」
「‥‥死にたいだって? 何をバカな事を」
 信夫は驚いて声を荒げる。妻子のいる彼にとって、死にたいなどと言っている私は異常なのだろう。私は自虐的に笑う。
「いいの、バカでも。今の私にはそれしか残ってないのよ。それに、最初に言ったじゃない。人には人の事情があるって」
「‥‥」
 信夫は眉間を揉む。理解不能とでも言いたいのだろう。
「ねぇ」
 私は残ったスパゲッティをフォークで突く。
「何だ?」
「私は自分の頭にしか銃口を向けないわ。そしてあなたは、最初の二発を私に向けるといいわ。賞金は一千万円、相手に向かって引き金を引けばマイナス四百万。二発なら、マイナス八百万、それを差し引いても二百万の賞金が貰える。それくらいでも、貰えないよりはマシだわ」
「‥‥」
 信夫の呼吸が止まる。
「もしそれでも決着がつかないなら、もうあとは神頼みだけど、でも、私が死ぬ可能性は高い。きっと、あなたが勝つ」
「‥‥そんな事を、言ってはいけない」
 喉に唾でも詰まっているのだろう。信夫の声はほとんど聞き取れない。それでも、私は続ける。
「悲しまなくてもいいわ。他人なんだから」
「言うなと言っているだろう!」
 信夫が私の肩を掴み、荒々しく揺さ振る。二人の間に置かれていたトレイがガシャンと音を立てて落ちた。信夫の顔は何かを懇願するかのように眉を寄せ、怯えていた。
「私は君に死んでほしくない!」
「でも、どちらかは確実に死ぬのよ。私に死んでほしくないのなら、あなたが死ぬの? 残った奥さんや娘さんはどうするの?」
 私はゆっくりと肩にかかった信夫の手を退けると自分のベッドに寝そべった。彼との口論の間に潰れてしまった煙草の箱からくしゃくしゃになった煙草を取り出すと、急いで火をつけた。煙草は一瞬だけだが、全ての言葉を遮る。私はその一瞬の壁が欲しかった。
 この人を殺してはいけない。この人の奥さんや娘さんに、私と同じ思いをさせてはいけない。私なんかが生き残るより、この人が生き残った方がいい。彼を待つ人はこの世にいる。私を待ってくれている人は、天国にしかいない。
 信夫は大きく項垂れ、何かを言おうとしては口を塞ぎ、また言おうとして口を半開きにする。彼の気持ちは分かる。自分は死にたくない。でも、相手にも死んでほしくない。このゲームに参加する事を決めた時から分かり切っている矛盾。優しい人は皆、この矛盾を解決する事が出来ない。だが、解決出来ようが出来まいが、時はやがて終わってしまう。
「時間はあと僅かよ。私は死にたいの。死ぬ為にこのゲームに参加しているのよ。以前、私は最愛の男性とこのゲームをした。この部屋に二人っきりにされるまで、相手があの人だとは知らなかった。そして、あの人は私の目の前で死んだ。自分に銃口を向けて、死んだ。その時から、私はずっと死にたいと思っていた」
 私の口から言葉が溢れ、紡ぎだされていく。信夫に決心をつけさせる為なのだろう。でも、それだけではない。知ってもらいたいのだ。私が何故死にたいのかを。信夫が家族の写真を見せたように、私も彼に見せたかった。
「何故、自分の家で自殺しないんだ? 何故、わざわざ人と争って死のうとするんだ? 何故、自分独りで死のうとしないんだ?」
 信夫が膝をガクガクと鳴らしながら訴える。私は何度も自分の中で反芻させた言葉を一言一言吐き出す。
「あの人の死んだここで死にたいのよ。あの人に最も近い場所で死にたいのよ。あなたも分かるでしょ? 愛した人と同じ所で死にたいって気持ち。その願いが叶うなら、他人の気持ちなんてどうでもいいわ。私は死にたい。あなたは生きたい。なら、答えは簡単。あなたが私を殺せばいいのよ」
 私はそう言いながら、嘘をついている、と思った。他人の事をどうでもいいと思いながら、懸命に信夫の奥さんや娘さんの事を考えている。いつもそうだ。独りでいる時は残酷な事を思うのに、実際人と接するとそう思えなくなってしまう。情というやつだろう。何人もの人が私の目の前で死んだのに、何故、いつまで経っても情が無くならないのだろう。
そんなものは早く無くなってほしい。無くなればこんな胸が引き裂かれるような思いをしなくて済むのに。
「‥‥分かってる。そんな事は分かってる。でも‥‥でも‥‥ああっ、人なんて殺した事が無いからなんて言えばいいのか分からない」
 信夫の両手の間から、涙らしきものが数滴落ちる。
「ゲーム開始まであと十分。私はもう何もあなたと話さない。この十分の間にあなたがする事はただ一つ。私を殺す決心する事だけ」
 私は煙草を投げ捨てると、寝返りをうって、信夫に背を向けた。信夫は嗚咽を漏らし続けている。欝陶しいとは思わない。私もあの人のゲームが始まるまでは、ああやって自分を無理矢理納得させようとしていたのだから。
 信夫の涙と泣き声は枯れる事無く、十分間、室内を覆い続けた。


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